1925年、福岡県若松市(現在の福岡県北九州市若松区)で生まれる。父親は住友石炭鉱業若松支店長で、大変裕福な環境で育った。1943年、旧制若松中学校(現福岡県立若松高等学校)卒業。1944年、旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進学。同学在学中に学徒出陣に徴用される。従属的な性格ではなかった為、上官らに激しく制裁、暴行を加えられ、戦争の不条理さを考えるようになる。
同年、敗戦を迎え復学後、東京大学法学部政治科に入学。国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、徴兵時の経験から国家に対する反骨志向や、当時の政府の政治姿勢の反発から、無政府主義者となり同学を中退する。
文学や演劇に没頭するようになり、劇団俳優座に入座しオペラ「オテロ」で初舞台を踏む。たまたま俳優座に来ていた映画監督の木下恵介と廊下ですれ違い顔が哲学的だとの理由で、松竹映画「女の園」の哲学の講師役で銀幕デビューをはたす。その後、木下監督に気に入られ、「二十四の瞳」で主演の高峰秀子の夫役に大抜擢される。当初二枚目俳優の位置づけだったが、東宝専属の俳優となってから、インテリの殺し屋やマッドサイエンティストなどの悪役を多く演じる様になる。特に岡本喜八監督に気に入られ岡本作品の最多出演俳優となる。中でも1967年上映の「殺人狂時代」で精神科医の溝呂木博士役は大好評だった。この映画では、天本のプロデュースで音楽にフラメンコを取り入れたり「イスパニア式決闘」などのシーンを織り込むなどの演出がでおこなわれている。
舞台の他、テレビ界でも活躍、時代劇やドラマ、バラエティー番組など数多くの番組に出演、特に1972年「仮面ライダー」の死神博士役は、子供たちに強烈なインパクトを与え、現代においても根強いファンがいる。1991年「たけし・逸見の平成教育委員会」に出演。クイズの天才的回答が評判になり、全国的に人気を博す。
私生活ではフラメンコをを通じ、スペインへの造詣が深くなり、スペイン全土を放浪する。これにより「スペイン回想」「スペイン巡礼」などの著作を表す。スペインの詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカに傾倒し、全国で詩の朗読を行う。我が国におけるスペインの芸術(ガウディ、ゴヤ、ダリ、ピカソetc)スペイン文化の、第一人者でもあり、生涯をかけて、スペインの陶磁器を始めとする様々な工芸品、芸術コレクションを集めた。
郷土愛が強く、年に数回は故郷の北九州市若松区に帰り地元の人々と親しく交流し、地域おこしのイベントにも積極的に参加していた。故郷の人々には、彼の役柄、東京での言動とはまったく違う印象の、優しくほがらかな人柄を見せ、大変慕われていた。
東京で催された知人のパーティに出席中、脳梗塞で倒れ故郷の若松区にて療養したが、徐々に衰弱してゆき、親類や友人らに看取られ2003年急性肺炎で亡くなる。死の直前まで、再びスペインへ赴く事を懇願していた。享年77歳。若松カトリック教会で葬儀が行われ、多くの人々が参列し天本の死を悼んだ。
俳優として、天才的な表現力と個性で特別な地位を築き上げた、正に無類の俳優だった。私生活では、強い意志と精神を持ち、何者にも左右されないその一貫した生き様は、多くの人々に感動を与えた。彼を失った映画界、映画ファンの計りしれない悲しみの中、全国各所で追悼イベントが催された。
2005年、天本の遺言により遺族と友人達の手で、スペインのグアダルキビール川源流に遺灰が散撒された。